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2011年7月

2011年7月31日 (日)

水害

7月30日、居住する地域に大雨洪水警報が発令されていました。

確かに夜中に凄い豪雨の音はしていたのですが、まさかここまでとは思いもしませんでした。

自宅のベランダからの光景

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慌てて外にでてみました。

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水深30Cmといったところでしょうか

近所には日本一の河川、信濃川が流れているので土手まで行ってました。

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↑は土曜の朝撮影
かなり増水して花火大会のために用意されていたテントの屋根しか見えません。

↓が本来の水位です。(日曜の朝撮影)

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土曜の夕方には道路に溜まっていた水もひいて既に復旧していますが、被害にあわれた方へお見舞い申し上げます。

2011年7月28日 (木)

ジョギングネタです

突然ですが俺はパチスロとボウリングとスキーとジョギングマニアです。(^^)

スキーはここ数年はたしなむ程度になりましたが、昔は年に20回以上スキー場まで足を運ぶスキー馬鹿でした。
(一応)コブ斜面を攻めるモーグルスキーにチャレンジしていて夏にはウォータージャンプといってエアーの練習のために白馬まで出かけたりもしてました。

モーグルスキーは猛烈に体力を消費するのですが30代半ばから持久力不足を感じて夏場にジョギングをするようになり、スキーはほとんどしなくなった今でもジョギングは続けています。

やり始める前はただ走るだけなんてツマらんなんて思っていたのですが、いざやりはじめると苦しいけどこれが結構な快感(ドMか?)

ということで今回はジョギングネタを少々

えーとまず、雪国なんで冬の間はほとんど走りません。
ジョギングシーズンは4月下旬頃から10月下旬頃までです。

週に2~3回、3.3Kmのコースを約20分で走るんですが、今週からコースを変更し5Kmに伸ばしてみました。
(距離は地図で目測)

目標は40分かかってもいいから完走です。

無事に完走してタイムをチェックしようとしたら時計が壊れていて計測不能 orz

ボウリングの景品でもらった超安物のスポーツウォッチなんでどうでもいいんですが1か月も持たずに壊れるとは...(`ε´)

家に帰って時計を見ると出発から40分も経っていなかったので恐らく30分位で走れたんじゃないかと推測

今の時期(真夏)でこのペースで完走できれば秋にはもう少しペースアップしてもいけるかな?

行きつけのパチンコ屋の景品コーナーにかっこいいG-SHOCKがあるんで、今週末の目標はG-SHOCKゲットだ!

2011年7月25日 (月)

パチンコ生活者になる

海外話が終わったらネタがなく、すっかり更新をサボってしまいました。(汗)

台湾からのオファーを断り再びパチンコ三昧の生活に戻りました。

5年程パチンコとは無縁の生活を送っていたので帰国後のパチンコ事情には衝撃を受けましたね。

その1 手を使わなくても玉が上皿に流れる
パチンコといえば100円か500円玉をサンドにいれて両手で玉を受け取るような感じで台の上皿へ移して打ち始めるというやり方だったのに500円玉をいれると自動的に玉が上皿へ流れるレールみたいなシステムではありませんか!

その2 スタートに入っても賞球がない
というかスタートチャッカーが穴ではなくセンサーだけのスルーになってる!
アレパチは昔からスルー形式でしたが、権利ものなる台(ソルジャーのことです)もスタートがスルーになっていてあっという間に1万円くらいなくなってしまいます。

その3 ハンパじゃない出玉
よくわからずにアレジンに座ったら1万くらい使ったところで大当たり、一撃で4万円分くらいの玉をゲットして「何じゃこりゃー!」ってくらい驚きました。

その後ソルジャーでもっと驚いた!

当時メインに打ったのはアレジン、何故かエキサイトには手をほとんど手を出さなかったです。
朝一にアレジンのモーニングをカニ歩きで捜索、常連の年配客にはかなりウザがられました。

運よくモーニングで持ち球ができ、回る台ならその台で粘り、回らなければ交換して別の台へ。。。
玉を持っての台移動は禁止で移動する場合は全部交換というルールが主流だったと思います。

あとパチンコ攻略雑誌の存在も衝撃でした。
パチンコごときで雑誌が成立するなんて...

雑誌を読んで確率論なるものを知り、フィーバーパワフルとフィーバークイーンの優秀台を探して県内色々なところへ遠征もしました。

時間だけはたっぷりとあったプーの特権ですね(^^)

スロットは4号機に切り替わった直後だったのかな?
3号機時代からスロにハマっていた友人に教わりながらニューパルサーを打ち始めたのもこの頃だと思います。

2011年7月15日 (金)

海外生活を経て

大変貴重な経験をさせてもらったと当時勤務していた会社には感謝しています。

後に聞いた話なのですが、本来赴任するべき人達がことごとく辞令を拒否した結果、候補がいなくて仕方がないから断りそうもない俺のところに話がきたようです。

当然俺も断ることはできましたが、軽い気持ちで了承しました。

当時のやり取りは今でも覚えています。

ある日上司に呼ばれて突然面接みたいなことに

上司「お前、海外勤務する気はあるか?」
俺 「行けと言われれば行きますけど」
上司「そうか、さがってよい」

このあとなんの音沙汰もなく半年経過

海外の話などとっくに忘れていた頃、海外事業部なる偉そうな部署の部長さんに呼び出されます。

部長「シンガポールとオランダの件なんだけど」
俺 「はぁ?」
部長「フリージア君は海外勤務を了承してこれから3年行ってくれるという前提なんだけどいいよね?」
俺 「あぁ、そういえばそんなこと言われましたけど、その後音沙汰なしなんで忘れてました」
部長「出発は来月の...」
俺 「来月ってそんなに急に」

とこんな感じで心の準備どころか、英語なんて全くわからない状態で始まった海外生活なので現地の人に本当に助けられました。

いろんな国でいろんな人と出会った結果、国籍の違いについては全く気にならなくなりました。カッコ良い言い方をするとグローバル感覚が身についたとでもいうのでしょうか

「○○人はああだ」とか「●●人はこうだ」とという考えはしなくなりましたね

日本を含めてどの国にも一部の悪人はいますが、ほとんどの人は普通に親切です。
当たり前ですね(^^)

今は田舎暮らしなので、日常生活で英語を使うこともありませんし、外国人と接する機会も滅多にないのですが、そのような機会があった場合はできる限り親切に対応しようと心がけています。

2011年7月 8日 (金)

台湾で就活

元上司のお誘いを受け、いざ台湾までやって来ました。

俺にとっては初めての台湾ですが元上司は10年以上も台北で暮らしていたので何の不自由もなく台北市内まで到着!

そして現地企業の経営者との面会するわけですが実はこの方、倒産した元勤務先の非常勤役員みたいなこともしていた方で何度か面識もある方です。
ちなみに日本語はペラペラ

到着したその日は仕事の話はほとんどせず、お決まりのウェルカム接待を受けます。
ψ(`∇´)ψ

中華料理店でニンニクと油の聞いた台湾料理を喰らい、カラオケ(といっても日本のカラオケボックスのようなものではなくどちらかというとキャバクラみたいな飲み屋)へGO
とっても楽しい空間です(*^m^)

飲み屋のおねーちゃん相手にマレーシア時代に覚えた中国語を試したい俺は一生懸命北京語を使おうとしますが、相手の話が全然聞き取れません orz

こっちがしゃべることは理解はしてもらえているようですが、非常に美しい発音でべらべらしゃべられると全然ついていけず、英語交じりのマレーシアンチャイニーズに教わった俺は軽くショックを受けます。

でも若くてきれいなおねーちゃん達が次から次へと相手をしてくれますのであっという間に時間は過ぎていきました。

翌日は軽く台北市内を観光
当時(今も?)台湾にはパチンコ屋があり、打ちはしませんでしたが見に行った覚えがあります。
日本から輸入した台のプログラムを改造した超ギャンブル台だそうです。

さて、本来の目的の就活ですが、2日間かけてその経営者が所有するグループ企業を次々と見学しました。

その中にソフトウェア関連の部門があり日本人の技術者として俺を雇ってくれるとのことでした。
どうやら元上司が俺のことを大袈裟に売り込んだみたいです。

無事に3泊4日の就活旅行を終え帰国

現地の経営者はうちで働くならいつでもウェルカムみたいなことを言ってくれ、 職種も待遇も大変魅力的な話でしたが悩んだ挙句この話はお断りすることに...

あの頃の俺には十分すぎるほどの波乱万丈な海外生活を終えたばかりで、再び波乱万丈人生へ飛び込む勇気がありませんでした。

正直な気持ち、今あのときに戻れるなら戻って台湾で仕事がしてみたいと思います。
つまり後悔しているということです。

もしも、このブログを読んでいる若い方で同じような選択で悩んでいる方がおられましたら俺は言いたい!

迷わず行けよ!行けばわかるさ!

2011年7月 6日 (水)

就活

荷物が何も残っていないことに多少のショックを受けたままその足で地元の職安へ向かいました。

退職日が半年前の離職票を受付に提出すると担当者が「あぁ○○社の海外組の方ですか?」と言って手慣れた感じで対応してくれます。

この半年間の間にアメリカやオランダで俺と同じように海外に取り残された人達がバラバラと帰国して職安で受付をしていたようで、退職から期間が経過してしまっている理由を説明する必要はありませんでした。

バブル崩壊後とはいえ現在ほど不景気な雰囲気はなく当時まだ20代だった俺には仕事はたくさんあったと思います。

どうせならせっかく覚えた英語が生かせる仕事がいいなんてことも考えましたが田舎でそんな求人はありません。

それにこの5年間ちょっと苦労してきたから1、2か月は遊んで暮らそうなんて考えもあり、受付はしてもらったもののすぐにまじめに就活をしようとは思っていませんでした。
(職安の方すみません。懺悔します。)

こうして他人の家に居候の身でありながら、パチンコ三昧の生活がはじまることになります。

1か月くらい経ったころだったかなぁ、シンガポール時代の最後の直属上司だった人が帰国して連絡をくれました。

この人、シンガポール赴任前は台湾に長く住んでいてコネがあり
「台湾に知り合いがいるので行ってみないか?」
(台湾で仕事をしてみないかという意味です)
とお誘いを受けました。

多少の迷いはありましたが、旅費は負担してくれるというので台湾まで就職活動に行くことに...

ということで次回は「台湾で就活編」です。

2011年7月 4日 (月)

俺の財産が!

一時はこのまま日本に帰ることはないんじゃないかとさえ思った外国暮らしも会社が倒産して失業するという思いがけない事態で終わりを遂げることになりました。

シンガポールから帰国後、仕事も住むところもない俺はとりあえず当時両親が暮らしていた仙台に身をおき、これからどうするかを考えることになります。

両親は転勤族で元々は北海道人なのですが、俺が子供の頃に新潟へ引っ越してきてその後は富山、秋田、仙台と移り住んでいましたが、高校卒業まで新潟で暮らした俺にとっては新潟が地元です。

両親がいつまでも仙台にいるわけじゃないことは明白でしたので新潟へ戻るか、東京で仕事を探すか...あるいは親戚がいる生まれ故郷の北海道へ移り住もうか...

退職扱いになってからすでに半年以上が経過していましたが本社(新潟)はまだ完全に解散にはなった訳ではなく、最後の残務整理みたいなことをするべく数人の人が残っていました。

帰国直前にその担当者から離職票や年金の手続きがあるので日本に帰ったら一度顔を出すようにと指示を受けていましたので仙台から新潟へ向かうことになります。

しかしながらちょっとした問題が。。。
今まで仕事で一時帰国した場合は会社の寮みたいなアパートやマンションに寝泊りしていたのですが、会社が存在しなくなった今、新潟には寝泊りする場所がありません。

困っていたところ両親の新潟時代の友人のご厚意でその方の家に居候させてもらうことができました。

本社(といっても別の場所でひっそりと残務整理をしているだけ)に行き各種手続きをすませた後、自分の荷物がどうなっているのかを担当者に尋ねます。

実は海外赴任前に一人暮らしをしていた俺は処分できない荷物を会社の倉庫へ預けたままだったのです。

担当者 「もう、倉庫には入れませんし何も残ってないはずです」

ある程度予想はしていましたが、こうして本当にすべての財産(という程のものではありませんが)を失ったフリージアなのでした。

続く

2011年7月 1日 (金)

ついに帰国

現地企業に就職して半年程度
もう日本人による生産管理は不要となり、ついに帰国の日程が決定します。

大きな荷物は日系の運送会社に依頼して実家へ送りました。
乗っていた車は中古車屋に売却。。。

そしてHちゃんとは相談した結果、別れることに(涙)

別に喧嘩別れする訳じゃなかったので最後のその日まで同棲生活をしようということになり、帰国準備で家が空っぽになった俺はHちゃんの家に入り浸ることになります。
1ヶ月くらいだったと思います。

最後の日の朝、中国語で読み書きができない俺は感謝の気持ちを全部ひらがなで手紙に書きHちゃんに渡しました。

Hちゃんもお礼を言ってくれましたが、顔は今にも泣き出しそうでした。
(帰国後、電話で話したのですが後から手紙を読んで大泣きしたそうです。本当かな?)

帰国便は会社が手配してくれ、最後の日は会社の運転手が直接シンガポールの空港まで車で送ってくれました。

飛行機に乗り離陸する瞬間に外を見ながら「3年間、お世話になりありがとう」とシンガポールとマレーシアに心の中でお礼
m(_ _)m

地元並みに慣れ親しんだ土地を離れることになり、もう一生戻ってくることはないのかもしれないという思いとHちゃんの顔を思い出し、自然に涙がこぼれ落ちたのを今でも覚えています。

こうして長いようで短い、短いようで長かった海外生活は終わりとなりました。

次回からは浦島太郎状態で失業者となった生活ぶりを紹介したいと思います。

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