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2011年6月

2011年6月29日 (水)

国際カップル誕生

えーと半分勢いでローカルガールフレンドの話題を書いてしまったので続きをどのように持っていこうか思案中です(^^)

海外生活もほぼ終盤戦となってはじめてローカルのガールフレンドができたわけですがこのとき既にそんなに長くはマレーシアにはいないことを予想していました。

付き合う前に彼女にはその旨伝えましたが、その時が来たら一緒に考えるということで交際がスタートしたと記憶しています。

お互い一人暮らしなので、Hちゃんは夕飯を作ってくれたりしました。(*^.^*)

彼女の家に行くと日本で録画して持ち帰ってきたと思われる日本のTV番組を見せられることが多かったです。
何故か志村けんが出演している番組ばっかり (・_・)???

彼女は英語が苦手だったので会話は日本語と中国語をミックス
彼女の日本語は俺の中国語とレベルは同じくらいかそれ以上だったかなぁ

当時はマレーシアやシンガポールは地元並に慣れ親しんでいたので意識はありませんでしたがお互いに言葉を教え合って、今思うと典型的な国際カップルでしたね

以前の記事にも書きましたが、すでに現地化していた俺の風貌は中国系の彼女を得てますます中国人っぽくなっていったと思います。

言葉もそこそこしゃべるんで中国系マレーシアンの人からみると俺は中国系シンガポーリアンだと思われることがほとんどでした。

どんなに日本語が上手な中国人や韓国人に出会ってもしゃべるとたいていアクセントとかで外国人だということはすぐに判断できるのにマレーシアとか多民族国家だど言葉がおかしいのは気にならないのかなぁ?

朝青龍くらい日本語が上手だと全然バレませんけど当時の俺の中国語がそんなに流暢なはずはないのに。。。不思議です。

彼女はアパレル系の店員をしていたため、売上貢献という意味もあり、やたら服を買ったり貰ったりしました。

そんな幸せな日々が続くこと数か月、会社の生産は軌道に乗りはじめて俺の任務はほぼ完了し、いよいよ帰国する日が迫ってきます。

2011年6月27日 (月)

帰国編その前に

いよいよ最終回かなと思ったのですが、読者様からの要望もあり勇気を出して最終回を恋バナで引っ張ってみようかと思います。(^^)

現地企業の社員となった俺はビザを取り直して再びマレーシア拠点で生活することになります。

住む場所は会社が用意してくれた一軒家、過去に泥棒騒ぎがあったので一軒家はちょっと心配でしたが、場所的には治安が良いとのことでした。

家と通勤する場所がちょっと違うだけで何も目新しいことはありません。
任務は生産が安定稼働するまでのお手伝い的な役割だったので従来と比べると非常に楽でした。

前の会社で働いていた日本人2人とマレーシア人も何人か一緒に採用されたので、彼らと晩飯を食って飲みに行くというお決まりの生活を送っていましたが、俺を除く日本人は契約期間が短かったので2人が帰国するとマレーシアで完全な一人暮らしとなりました。

時々日本人のお客さんが来るので対応しますが、それ以外は普段の生活で日本人と接する機会が激減し、夜になって「今日、日本語しゃべったっけ?」なんて日も度々。。。

なんとなく寂しい生活の中、日本で働いていたことがあるという女の子と2人組と出会うことになります。

そのうちの一人、Hちゃん
彼女は俺より4歳年上でしたが、全然年上には見えないくらい可愛かった。(#^.^#)

出会ったとき彼女は飲み屋のホステスだったのですが、すぐに止めて洋服屋の店員みたいな仕事をしていました。

日本に1年程いたそうで多少の日本語が話せ、俺は彼女に好意をいだくようになり彼女もまんざらではない様子でしたが、ある日もう一人の女の子とその彼氏と俺とHちゃん4人でクアラルンプールへ遊びにいくことになり、それがきっかけで俺は人生ではじめて外国人の女性とお付き合いをすることに...

続く

2011年6月24日 (金)

いよいよ帰国?

昨日の記事の続きです。

ある程度、会社の整理が落ち着き我が社の製品は別の企業に引き継がれることになりました。

現地人スタッフも一部を除いて解雇、日本人スタッフも大半は帰国しました。

この頃には日本の本社はほぼ解散状態となっており、ささやかな退職金も受け取っていました。

両親が日本各地を転勤していたので海外赴任前から一人暮らしをしていた俺の場合、日本での社会的身分は「住所不定無職」です。

次々と日本人スタッフが帰国する姿をみてそれまで全くといっていいほどなかった望郷の念が俺の中で生まれ始めます。

一応シンガポール支社はまだ解散しておらず現地法人からの給料は貰っていましたがもはや会社としては何の拘束力もなく日本へ帰りたければ帰ればいいし、もうちょっと居たければ何らかの仕事はあるという状況でした。

俺は我が社の製品を引き継いだ会社の手伝いみたいな業務をこなしていましたが、その会社から「うちの社員として働かないか」というオファーをいただきます。

望郷の念が芽生えはじめた俺はちょっと迷いましたが、日本に帰っても仕事はないし、何より帰っても住むところから探さなくてはならないということもあったのでとりあえずその会社にお世話になることにしました。

こうして終わりと思われた海外生活もう少しだけ延長されることになります。

次回は本当に最終回となりそうです。

2011年6月23日 (木)

会社が倒産

当時迷惑をかけた方にとっても、もう昔話となっていることと思い記事にします。

自分は経営には関与しておりませんでしたが、当時ご迷惑をおかけした取引先各位にはこの場を借りてお詫び申し上げます。(*_ _)人ゴメンナサイ

海外生活をはじめてそろそろ4年が経とうとしていたその日、日本に出張で一時帰国していた俺は本社での仕事を終え当時両親が暮らしていた仙台の実家にいました。

何故か地元の幼なじみの友人から実家に電話が...

俺が一時帰国していることなんて知らないはずなのにやけにタイミングいいなぁなんて思いながら電話にでる俺

友人「会社大丈夫?」
俺 「?」
友人「地元の新聞にお前の会社倒産って載ってるよ」

友人は心配して俺の両親に電話してきたみたいです。

経営状態がよくないとは薄々感じていましたが、末端社員の俺はまさか倒産するほどとは思いもしませんでした。

ほどなくして今度はシンガポール支社の上司から電話が...

電話の理由は重々承知で電話にでる俺

上司「聞いた?お前、ちゃんとシンガポールへ帰ってくるよな?」
俺 「帰りますけど、何がどうなったんですか」
上司「本社が倒産してこっちも大変なことになりそうだからすぐに戻って来い」

上司の命令がなくても戻る予定でしたので、予定通り(シンガポールに)帰国し、寮に行くと日本人スタッフ全員が寮に集まって取引先対応の準備をしています。

俺がシンガポールに戻ったのは本社倒産のニュースが流れてからすでに3日くらい経過していましたが、会社に行くと取引先(後に債権者となる)の方たちが長者の列を作っていました。

次から次へと取引先の方が訪れ、状況説明を求められます。

皆さん購買部門の責任者を訪れてくるのですがとても全員の対応はできないのであんまり状況を把握していない俺も対応せざる得ません。

1週間くらいの間、全員徹夜に近い状態で押しかける人達の対応でしたが、中にはとても憤慨している人もいて怒鳴られたりすることもありホント大変でした。

倒産してすぐに解散なら、悪い言い方をすればそのまま逃げれば終わりですが、そういうわけにもいきません。

普通の企業が倒産する場合は経営不能→破産→整理→解散という流れになります。

詳しいことは省略しますが、この整理期間が非常に大変でした。

お客とサプライヤーへの説明と膨大な量の資料作成に追われ睡眠不足で多忙な日々が1か月近く続いたと思います。

続く

2011年6月21日 (火)

各国の治安

今回は自分が感じた各国の治安について書いてみます。
20年前のことなので現在は状況が変わっていると思います。

○シンガポール
とっても治安の良い国だと感じました。
凶悪事件の発生率は日本の地方都市並みじゃないかなぁ

治安が云々の話ではありませんがシンガポール(マレーシアも同様)は麻薬に対する処罰が厳しいので入国時に変な人から荷物を預かったりしてはいけません。万一預かった荷物に麻薬の類が入っていて見つかるとかなりの確率で死刑になってしまいます。

○マレーシア
アメリカや中東に比べればはるかに良いと思いますが、日本やシンガポールと比べるとかなり悪いです。
凶悪事件に巻き込まれることは稀だと思いますが、タクシー料金のぼったくりとかには注意が必要です。
いかがわしい場所はたくさんありましたのでそういう場所には日本人だけでは近づかない方が無難です。

マレーシアで遭遇したトラブル

(1)自宅に泥棒
一軒家を借り日本人2人で住んでいたのですが、昼間仕事に出かけている間に空き巣にやられました。
金額的に大した被害はありませんでしたが、窓が壊されたり、衣類が盗まれることに。。。

(2)自宅に泥棒パート2
同じ家での出来事ですが再び泥棒に襲撃されます。
今度は空き巣ではなく夜中に寝ている間に泥棒が家に入ってきたのです。

妙に蚊が多いなぁと思って目が覚めたら部屋のドアが全開(?)
起きて部屋の外にでると玄関のドアも全開(°°;)

慌てて同僚を起こし被害状況を確認

今回は家にいたので持ち合わせの現金や腕時計等が盗まれました。
同僚はカバンごと盗まれて中にパスポートとかが入っていたので大変!

人的被害はありませんでしたが自分が寝ている部屋に犯人が入ってきて脱ぎっぱなしのズボンのポケットから現金を盗んでいったという事実に大変驚きました。もっと早く目が覚めていたら犯人と接触する可能性もあったと思うと非常に怖かったです。

その後ガードマン付きのコンドミニアム(マンションみたいな集合住宅)に引っ越すことになりそこではそのようなトラブルに巻き込まれることはありませんでした。

いずれのケースも地元の警察が来て現場検証みたいなことはしましたがそれ以上犯人捜しをするような気配はありませんでした。

○オランダ
オランダ(といっても自分が住んでいた地方都市)も治安は悪くはないと思いますが日本の感覚では安全に生活はできません。
アムステルダムなどの都会は日本と比べるかなり治安は悪いのではないかと思います。

オランダでの遭遇したトラブル

(1)車上荒らし未遂
車を所有していましたが、車にはカーステが装備されています。(ごく普通ですよね)
ちょっと違うのが、当時のヨーロッパのカーステは着脱式になっていました。
装着したまま車を離れるとカーステが盗まれてしまうので車を離れるときは外して持ち歩くのです。
用心深い(というか面倒くさがりじゃない)人はスーパーの駐車場なんかでもそれ(カーステを外して持ち歩く行為)を実施しています。

自分は甘かったので自宅以外はつけっぱなしでしたがある日、自宅の駐車場でも取り外すのを忘れました。
翌日、車に乗ろうとすると運転席のドアの鍵が壊されていてドアが開きません。
なんじゃっこりゃーと思いましたが、すぐにカーステ置きっぱなしが原因だと気づきました。
幸いドアをこじ開けることができなかった模様で盗まれたものはありませんでしたがドア鍵の修理代としばらくの間助手席から乗り降りするハメになった精神的苦痛が大きかった orz

(2)痴漢?(なんと表現していいのかわかりません)
ある日、一人でドライブに出かけて高速のパーキングみたいなところで休んでいたところ見知らぬ男が近づいてきて俺に向かってなにか話しかけてきます。
なんだろ?と思って窓を開けたとたんその男が俺の股間目掛けて手を伸ばしてくるではありませんか(驚)
びっくりして一瞬固まってしましたよ!
何すんじゃい!と思って男をみるとその野郎チ○ポ丸出し Σ( ̄□ ̄;)

怖くなって慌てて車を発進させて逃げたので実害はありませんでしたがもうテンションだだ落ち.・゜゜・(/。\)・゜゜・.

もしかしたら、あのパーキングは「そういう趣味の輩が集まる場所なのか?」とも思いました。
オランダ人の友人に聞けば教えてくれそうだけど恥ずかしさとショックで誰にも報告(相談)できませんでした。

外国で事件に巻き込まれると何かと面倒ですので興味本位での軽率な行動は控えた方が無難ですね!

2011年6月20日 (月)

文化の違いなど

当然ですが外国で暮らすと文化の違いを感じることがあります。

○残業
基本的にヨーロッパ人は滅多に残業をしませんでした。
賃金云々ではなく「家族と過ごす時間が第一」という大前提で就業時間が過ぎれば即帰宅するというのが一般的な考え方です。
日本でもそのような健全な職場もあるとは思いますが、自分が身を置いている業界では今でも夜8時や9時までは会社に居る人が多いです。

対して東南アジアでは(時間給の工員は)積極的に残業を行います。
人によっては「あまり残業をさせてくれない」という理由で転職する人もいるくらいです。

○サービス業の営業時間
日本人の感覚ではサービス業たるもの平日は夕方以降から夜にかけてがかき入れ時だと思うのですが、ヨーロッパではスーパーも午後6時とか7時には閉店してしまいます。
土曜は営業しているお店もありますが、日曜はスーパーやデパート、その他のお店すべて休みです。
日曜に営業していた店といえばファーストフードやレンタルビデオ、ガソリンスタンドとかだったかなぁ?(ガソリンスタンドは利便性を考えると理解できますが、レンタルビデオは何で休みじゃななかったんだろう?)
従業員が週末に家族と過ごせるようにという理由だと思いますがサービス業も週末は休みなのです。
時間を惜しんで商売に励む日本人との大きな違いを感じました。

東南アジアではサービス業は年中無休かな?
お店も夜遅くまで営業していたと記憶しています。

○(文化ではありませんが)日照時間
オランダは北海道よりもずっと北に位置するので季節によって日照時間が全然違います。
夏は朝4時頃から夜の9時(10時近くだったかな?)まで明るかったと記憶しています。
逆に冬は完全に明るくなるのは10時頃で夕方4時には暗くなりはじめていたと思います。
サマータイム制が導入されていました。

対してシンガポールはほぼ赤道直下なので日照時間も気温も一年中ほぼ同じで季節なんてものはありません。
昼の12時頃は太陽が本当に真上にあります。
北海道生まれ、新潟育ちの自分にとっては元旦の気温が摂氏36度もあるのはなんとも変な気分でした。

住みやすさ(フリージア的独断と偏見です。)
オランダとシンガポールとマレーシア何処が住みやすいかといわれると
1位 オランダ
2位 シンガポール
3位 マレーシア

1位と2位はほぼ同率ですがヨーロッパはゆとりがあるというか人間的には凄く幸せに過ごせるような気がします。
何事も忙しくない雰囲気が好きでした。
都会の雰囲気が好きな方はシンガポールの方が好みかもしれません。

あまり長く居住はしませんでしたがアメリカとメキシコもランキングに入れると
1位 アメリカ
2位 オランダ
3位 シンガポール
4位 マレーシア
5位 メキシコ

かな

アメリカがオランダより上位にくる理由は優雅さに加えて娯楽の多さや刺激も多い(気がする)からです。世界一の大国というだけあって大変魅力を感じました。
メキシコが最下位なのは超個人的な理由「英語が通じなかった」から(ゴメンねメキシコ)

2011年6月18日 (土)

週末はマレーシア

シンガポールは先進国に近い生活水準です。

物価もそれほど安くはなく日系のデパートやなんかは日本よりも高かったかもしれません。
伊勢丹、三越、大丸等主要な大手百貨店が進出していました。

デパートにあまり用事はありませんでしたが。食料品の調達は今はなきヤオハンにお世話になっていました。

中心街には観光客向けのブランドショップがたくさんあり日本人観光客で賑わっています。
日本人の俺が言うのもなんですが、日本はシンガポールの経済発展に相当貢献していたはずです。

そういえば当時シンガポールにも秋葉原のような電気街があって
(正確には街ではなくて一つの大きなビルのテナントほとんどが電気屋さんというショッピングモール)
その中のPCショップで大奮発してカラー液晶搭載のノートPCを買った思い出があります。
液晶解像度はVGA(いまどきのスマホ以下)DOS-V + Windows3.1が動く486マシンが40万円位だった気が。。。

さてシンガポール配属になった俺ですが、労働時間は相変わらず長く平日は夜の10時とか11時とかまで平気で会社にいたと思います。

よって趣味は相変わらず「飲みに行くこと」です。

しかーし、マレーシアと大きく異なる点が...
シンガポールで飲みに行くと恐ろしく金がかかるのです。

まずホーカーセンターで中華料理の晩飯を食いながら軽く飲みはじめます。
(ここまでは比較的安い)
その後、本格的に飲みに出かけるのですが、日本人向けのクラブみたいなところに行くのです。
本物の銀座なんて行ったこともないので比べようはありませんが、俺にとってはシンガポールバージョンの銀座みたいな高級店です。

4、5人位で行ってシーバスリーガルのボトルを1本空けてお勘定は10万円也(驚)
一軒で一人当たり日本円の2~3万円くらい使うんです。

もちろん高いだけあって若くて綺麗なおねーさん(しかも日本語も話せる)が素晴らしい気配りで相手をしてくれるわけですが、毎週通うと月10万円近くも飲み代に使うことになってしまいます。

他に安いとこはないの?って言われそうですがもちろん安いところはありますよ。
日本人客をメインにするところでも「超高級」「高級」「中級」って感じでランクはありました。
中級の店でも2時間くらいで1万円は必要でしたね

あとは日本人があまり行かないようなところならかなり安いと思います。
個人的にはそのような店のでも良いのですがシンガポールに長くいる先輩方が高級店ばかりだったので
後からシンガポール組となった俺は先輩方について行くしかありません。

また一度味わってしまうと高いとわかっていてもついつい行ってしまうんです。(^^;)
それくらい楽しい空間でした。

いくら趣味(?)とはいえ飲み代で毎月10万も使うわけにもいきません。

そこで俺はシンガポールを拠点としながらも週末は極力マレーシアに仕事を見つけていくようにし、週末はマレーシアで過ごすという第一次マレーシア勤務時代と真逆の生活パターンを送ることになります。

2011年6月16日 (木)

シンガポールの食事情

最初に日本を離れてから3年が経過した頃、本社の総務の人から海外駐在の任期の延長についての依頼を受けました。

どうせ断っても説得工作されますし、担当していた業務内容なんかを考えると現実的には断れません。
何よりそれほど日本に帰りたかった訳でもなかったのですんなり了承しました。

この時は確か「じゃあとりあえずもう1年」という感じだったと思います。

そして同じ頃、シンガポール支社の責任者(現地法人の社長)が交代となり新しい社長が赴任してきて、その方が赴任早々組織変更みたいなことを実施して俺はマレーシア拠点の配属からシンガポール拠点に配属変更となります。

拠点はシンガポールになりましたが、仕事でちょくちょくマレーシアに行くことになり、わざわざ配属変更する必要はなかったんじゃないかと思いましたが、電話とFAXしか通信手段がない時代でしたので顔を合わせて指示をするということも大事だったのでしょう

シンガポールのワーキングビザ(通称グリーンカード)を取得し、出入国時の面倒な手続きから解放されたのは嬉しかったです。

ということで前置きが長くなりましたが今回はシンガポールでの食事情について少々

寮で日本人2人での生活でしたので朝はパンとコーヒーなど日本の日常と同じ

昼は会社の近くにたくさんの屋台が営業している場所(ホーカーセンターと呼ばれていました)がありそこへ行きランチメニューです。

まず皿にご飯を盛ってもらい、食べたいおかずを選んで同じ皿に乗っけてもらいます。

揚げ魚とか野菜炒めとか適当に何品か選んだあとレジ(といってもその場にいるおばさん)に提出するとおばさんが品目をじろっと眺めて「3.5ドル」とか「4ドル」とか言うので言われたとおりの金額を払うシステムです。

当時のレートは1シンガポールドル=70円くらいでしたので1食300円弱ですね
(記憶違いでもっと安かったかもしれません)

夜も同じくホーカーセンターですが、数人で一緒にいって本格中華にビールを飲んで一人1000円くらいだったかな?

屋外の屋台ですのでそんなにきれいではありませんが衛生管理に問題はないと思います。

味に関してはランチメニューはイマイチでしたが、夜バージョンの中華はとても美味しくて大好きでした。

シンガポールでは高級中華レストランに行く機会も何度かありましたがそのようなところはマジで激ウマです。(*^-^)

あまりグルメ志向はない俺でも、はっきりと違いがわかるほど美味しかったです。

フカヒレやアワビはもちろんですが春巻きでさえも、こんな美味い春巻きあるの?ってくらい感動した記憶があります。

あと食事情ではないのですがテイクアウトのジュースを買うと(店によっては)紙コップではなくビニール袋にいれてくれるんです。
(金魚すくいでゲットした金魚を入れてくれるビニール袋みたいなやつです)

でもってそれにストローを差して飲むんですが、シンガポールは先進国に近い生活水準なんでオフィス街で働く女性とかはビシッしたスーツを着たビジネスウーマンです。
そんな素敵なレディがビニール袋に入ったジュースを持ち歩いている姿が妙に物珍しくて何故だか印象に残っています。

2011年6月15日 (水)

レア体験

今回はマレーシアで全身麻酔を必要とする外科手術(大袈裟w)を受けた経験談です。

自分でいうのも何ですがかなりのレア体験だと思いますので心して読んでください。

というのは冗談で大した内容ではありませんのでゆるーくお読みください(^^)


ある日の早朝、激しい腹痛で目が覚めました。

衛生環境がよろしくない国での生活でしたので、「また変なもの食ったかなぁ」と思いながらトイレへ立てこもりますが、いつもと様子が違います。

腹痛が治まらないまま、時間になったので出勤しますがどうにも我慢できなくなってきたので病院へ行くことに...

「ちょっと重めの食あたり」だと思っていましたが

医者は診察開始早々に 「盲腸だな、俺が手術してやるよ」

医学の知識はありませんが現在は盲腸は薬で抑えることができると聞いたことがあります。15年以上前の話ですが、そのころは日本でも即手術だったんでしょうかねぇ

とにかく、腹痛は治まらないまま会社に状況を伝えました。

しばらくすると、会社から連絡があり、日本の本社から「マレーシアで手術など危険なので許可できん、シンガポールの病院へ移動せよ」という指令がきたので従ってくれとのことでした。

そんなこと言われても.....
この強烈な腹痛のままシンガポールへ移動するのは嫌(というか無理)だったので断固拒否してさっき診察してくれたドクターに執刀してもらうことに.....

人生初の全身麻酔、最初に注射を打たれてその後、麻酔ガスみたいなのを嗅がされたと思います。ガスの吸引器みたいなのが顔に近づいてきたところまでは覚えていますがそこから先は手術が終わって起こされるまで全く記憶がありません。
(全身麻酔だから当然ですね)

気が付くと銀紙みたいなのに包まれていてすごい寒さを感じた記憶があります。

なんとなく腹が痛いのはメスで切られた外傷の痛みでした。

病室に運ばれると、皆がお見舞いに来てくれました。
納期や品質の問題でかなり激しくぶつかっていた協力会社の現地人の担当者もきてくれてとても嬉しかったのを覚えています。

盲腸の痛みがなくなると一転、入院生活は退屈で仕方がありません。

ダメ元で自宅で療養するから退院させてくれと頼むと「酒を飲まない」ことと「シャワーを浴びない」ことを条件にあっさり了承されなんと外科手術を受けながらも1泊2日の入院ですみました。

日本で入院したことも手術を受けたこともないのでわからいのですが盲腸くらいじゃこんなもんなのかなぁ

退院したとはいえ一応腹を切っているので、10日間くらいは動くと結構痛かったです。

今でも傷跡を見るたびにずいぶんなレア体験をしたなぁなんて思い出します。

2011年6月14日 (火)

中国語奮闘編

話は第二次マレーシア勤務時代です。

マレーシア工場は社内で最大の生産拠点となり、生産量に比例して次から次へと問題が発生し、多忙な毎日を過ごすこととなります。

オランダ時代はツーリングやスカッシュなど健全な趣味を満喫していたのですが、あまり娯楽もない途上国ではもはや「飲みに行くこと」が趣味と化していました。(^-^;

1年も経過するとすっかり地元のような感覚になり、そうすると外見も変わってくるのか一見では日本人には見えない風貌になっていたようです。

飲み屋の女の子なんかは普通に中国語で話しかけてきたので日本人だと伝えると「全然見えない」と驚かれることが多々。。。

イスラム教徒はアルコール摂取は禁止されていますので、現地の飲み仲間は必然的に中国系の友人になります。そんな環境も幸いしたのか、英語のときほど必死に勉強はしませんでしたが、なんとなく中国語が理解できるようになっていました。

そしてちょっとづつ飲み屋で中国語を使い、通じるとうれしくなって機会があれば積極的に中国語を使い始めるようになります。

会社の若い衆(中国系のマレーシア人)とよく晩飯を食ってそのまま飲みに行ったりしました。
会社では英語しか使わないのに夜の世界では何故か中国語で会話するようになり、それが楽しくてまた飲みに。。。の繰り返し

当時は飲み屋のホステスにとっては「日本人=たくさんお金を使ってくれるとってもいい客」
という方程式で日本人であるというだけでモテました。
(↑モテているというのかどうかは疑問でもありますが)

街では英語が通じるとはいっても飲み屋のホステスをしている女の子なんかは英語は得意じゃない子もたくさんいしたが、そういう子にとっては多少なりとも中国語がわかる日本人は絶好の客でありモテ度も全然違います(^-^)

相手の目的はどうであれ若い女の子にチヤホヤされて悪い気はしませんし、他の日本人に大きな差(何の差だw)を付けれるということもありこのような不純な動機でどんどん中国語が上達していきました。

マレーシア(とシンガポール)で使われる中国語について
中国語には色々な種類があるのですが自分が学んだのは一番基本の北京語です。現地では「華語」と呼ばれていました。
中国本土では「国語」と呼ばれていると思います。
ほとんどの中国系の人は北京語プラス何かしらの方言を話せます。
シンガポーリアンは福建語、マレーシアンは広東語の割合が多かったと思います。

ちなみに一番のお気に入りだった女の子はクアラルンプール出身で広東語使いでした。
(↑どうでもいい情報)

こんな調子で帰国する直前にはかなり上達した感があったのですが、それは自分の勘違いで英語と中国語をごちゃまぜで使っていたようです。

これは後に台湾に行ったときに思い知らされました。
それから「話せるけど、書けない&読めない」状態でした。
これが早々に忘れてしまう原因だったのかもしれません。

教訓:男は女にモテるためなら何でもできる(^^)

ではっ!

2011年6月13日 (月)

ビールチャレンジ

本ブログ初のボウリングネタです。

いつもの海外与太話は昨日の日付で公開しましたのでよろしければご覧になってください。

6/12の夜、行きつけのセンターの草大会に参加しました。

大会名:
ビールチャレンジ

概要:
センター代表者のスコアをハンデ込で上回ればビール(350mlの発泡酒)がもらえるという大会
1ゲーム目:1本
2ゲーム目:2本
3ゲーム目:3本
4ゲーム目:4本
全勝すると全部で10本もらえます(^^)

このセンターは練習メインであんまり大会には参加しないのですが、都合がつけばこのイベントには参加するようにしています。

ハンデ

220をベースにして90%のハンディキャップがもらえます。
(例えば前月のアベレージが200なら220-200 x 0.9 = 18ピン)

自分の今月のハンデは17でした。なんとも身分不相応な数字です。

あまりの少なさに何かの間違えだとゆるーく抗議してみたのですが、前回まぐれでビール大量ゲットしたときの好成績のおかげでアベレージが上がった模様です。

本来アベアップは嬉しいことですが、ビールチャレンジにおいてハンデ少は致命的となります。(笑)

自力で203打てば220扱いになるのですが、センター代表は無名ながら(ゴメンネUプロ)現役の男子プロ
もの凄い破壊力のある球をコントロールよく投げ込み、ホームでのアベは少な目にみても230はあるでしょう。

よってハンデ17ではかなり厳しいです。

結果

俺の成績:230、220、250、200(ハンデ込、1の位四捨五入)

出来過ぎなくらいスコアは良かったのですが

対するプロの成績:240、180、260、270

結局勝てたのは2ゲーム目だけ orz
あまりにも強すぎるぜUプロ君!

この日の参加者のほとんどが2ゲーム目しか勝てなかったので賞品として用意されているビールが大量に余ったらしく2ゲーム目勝利賞とおまけのビールをもらいました。

冗談交じりにハンデ計算のベースを240にするように陳情して帰宅

それにしても今回もスクラッチでアベ210近く打てました。結構上手くなってきたのかな俺?

2011年6月12日 (日)

ヨーロッパの食事情

リクエストをいただきましたのでヨーロッパの食事情について少々

オランダ

オランダ時代は寮に日本人3人で暮らしていたので、基本的に朝は適当、晩は日本食を自炊、昼はサンドウィッチを作って弁当として会社に持参していました。

先日の記事に書いたとおり月に1回程度、ドイツのデュッセルドルフまで買い出しに行ってましたので、日本食材の調達には困りませんでした。

オランダ料理というのはこれといって記憶にありませんが主食はポテトです。日本人がお米を食べる感覚で彼らはジャガイモを食べます。

フライドポテトにみじん切りにした玉ねぎとケチャップとマヨネーズをぶっかけた家庭料理(なのかどうか不明ですが)が好きでした。

今でもたまにそれっぽいのを作って食べてます(^^)

オランダの成人男性の平均身長は180Cm以上だそうですが、ジャガイモと牛乳であんなに大きくなるんでしょうかね?

外食するとなると値段は日本と同等かそれ以上となります。
日本食は近くにはありませんでしたがそれ以外はなんでもあったと思います。
いわゆるウェスタン、中華等々.....

周辺国での食の思い出

  • ベルギーのムール貝ワイン蒸し
    鍋というかバケツみたいな大きな器に山盛りのムール貝が出てきます。
    貝だけで腹いっぱいになるくらいの量だったと記憶しています。
    非常に美味しかったです。ベルギー旅行をされる方には超オススメの一品です。

  • ドイツのビール
    ビールが有名な国ですので、冬の寒いなかでも外でビールを飲んだりしました。
    今でこそ日本も価格破壊でかなり安くなりましたが、当時ジョッキ一杯100円程度は非常に魅力でした。
    (オランダもピルスナーやハイネケンなどの旨いビールの小瓶(300ml?)が100円程度でした。)

  • イギリスのレストラン
    ロンドン旅行記に書こうかととも思ったのですが、イギリスの方に失礼かなと思って躊躇してました。
    実は出発前の情報では物価が高くで食べ物が不味い国と聞いていたのですが、なんというかまぁその通りといった印象でした。
    あくまで2日程度の旅行で自分が行動した範囲の話なので、美味しいお店もあると思います。
    どうかイギリスの方、イギリスファンの方気を悪くしないでください。m(_ _)m

  • フランス
    もちろんフランス料理は美味しかったです。
    ただ、問題というかメニューがフランス語で書かれていて品名が長いんです。
    例えば「○○に△△をかけて××した後焼いたもの...」なんて内容がフランス語で延々と書かれているんです。
    パリに行ったときはフランス語ができるオランダ人が一緒だったので困りませんでしたが自分一人じゃこんなの読めるはずがありません orz

2011年6月11日 (土)

マレーシアの食事情

先日の記事でマレー料理は基本的に辛いと書きましたが、もちろん他のジャンルのものもあります。

○日本食
当時、ジョホバルには日本食レストランが一軒あり、正統派の日本食が食べれました。
衛星状態はまったく問題なくデリケートな人でもここなら問題ないでしょう。
値段は現地の一般と比べると10倍くらいしたと思います。
初めて赴任したときは週2くらいのペースで通ってましたが、現地に慣れると通う頻度は少なくなっていきました。

○洋食
ショッピングモールのテナントみたいな感じで営業している屋内のレストランがありました。
こちらも衛生状態は問題ないと思います。
一応、洋食屋さんなのでステーキとかもありましたが、中華やマレー料理も提供していました。
ファミレスみたいな感じですね!
値段は一般の5倍程度だったかな?

○マクドナルド、ケンタッキー
ファーストフードも衛生状態は良好です。しかも安い!
記憶があいまいですがハンバーガー1個、40円くらいだったと思います。
ファーストフードで気を付けなければならないのが、日本でトマトケチャップに相当するものはマレーシアではチリソースとなっています。
黙っているとポテトにはチリソースがついてくるので辛いのが苦手な人は間違えて食べないように注意が必要です。

○中華料理レストラン
レストランといっても当時のジョホバルには半分屋外営業の屋台みたいなのしかなかった気がします。(自分はそういうところしか行きませんでした。)
衛生状態はあまりよくありませんが、会社のカフェテリアよりはマシでした。
値段も安く、非常に美味しかったので晩飯は屋台で食べる確率80%を超えてました。

○マレー料理レストラン
こちらも屋外営業のやつです。
先日の記事に書いたとおり、辛い、汚い、でも安いってな感じです。
(表現が悪くて申し訳ありません)
有名なマレー料理はナシゴレン、ミーゴレン、サテーとかですね
どれも美味しいです。
自分は全然平気でしたけど、拒絶する人もいたので、デリケートな人はダメかもしれません。

○インド料理レストラン
インド系の友人に一度だけ連れて行ってもらいました。
とても日本人だけで行ける雰囲気のお店ではありませんでしたがマニアックなカレーが好きな人にはオススメです。
ヤシの葉の上にご飯と超本格インドカレーを盛ってもらえます。
当然ですが素手で食べることになります。
調理したてのカレーを素手でつかむと意外と熱いので覚悟が必要です。

では

2011年6月10日 (金)

ちょっと一息

ちょっと休憩ということで昔の写真を探してみました。

デジカメなんてなかった時代ですのでスキャン画像ですが、画像アップの練習ということで(^^)

オランダ時代に乗っていたBMW318i

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オランダ人に「日本人なのに何で日本車買わないの?」なんてに言われながらも憧れのドイツ車オーナーに(^^)

会社に出入りしていた業者のオランダ人がホンダのCR-Xを新車で買って見せびらかしに来たなんてこともありました。
日本人にとってはCR-Xは驚くほどのものではありませんが、オランダ人のスタッフはみな羨望の眼差し
当時(今もそうかもしれませんが)海外ではトヨタや日産よりホンダの方がブランドイメージが高かったです。

そしてバイク
ホンダ CB900F、超お気に入り

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日本ほど治安が良くないのでアパートの地下にある駐輪場へ運ぶわけですが、重い車体を地下通路で引き回すのが大変でした。

マレーシア時代に乗っていたプロトンウィラ

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納車後1週間ほどで左フェンダーをバイクに擦られました。
現地では擦ったくらいじゃ、いちいち弁償するなんて文化はありませんので当然そのままに...

2011年6月 9日 (木)

アメリカ&メキシコ編

時系列的にはちょっとタイムスリップしますが今回はアメリカ&メキシコ編です。

最初の記事でアメリカに2ヶ月居たと書きましたが大半はメキシコにいました。

アメリカ西海岸の南部にサンディエゴという町があるのはご存じの方も多いと思います。
サンディエゴから車で1時間半ほど東へ移動したところにエルセントロという町がありそこに会社の事務所があったんです。

事務所はアメリカですが、工場はメキシコにあり、第一次マレーシア勤務時代と同じく平日はメキシコ(ホテルではなく会社の寮でした)週末はアメリカという生活でした。

実は何故メキシコ勤務を命じられたか不明です。
当初東南アジアでの生産開始の目処が立ったらオランダへ転勤という予定だったのですが、オランダの会社設立が予定より遅れていたため俺の行き場がなくなり、仕方がないので「ちょっくらメキシコに行って勉強して来い」ってことだったのだのかもしれません。(はっきりそうは言われませんでしたが、任務はメキシコ工場の手伝いみたいな内容でした。)

アメリカとメキシコの国境はもちろん入国審査があります。
印象としてはメキシコに入国する際にはほぼフリーパス、アメリカに入るときはすごく厳重なチェックがされていたように思います。

パスポートチェックはもちろんですが、アメリカ入国時は車のトランク、車両の下とかも鏡を使って念入りに調べていました。おかげでメキシコ側はいつも大渋滞です。

滞在予定は2か月
マレーシアとは違ってメキシコではまったく英語が通じません。

たったの2か月で言葉も通じない国で何かしらの成果がでる仕事ができるわけでもなく、はっきりいって暇でした。
まさに給料泥棒状態です。(大変申し訳ありませんでした>>当時の上司様)

メキシコでの食生活
会社の寮に日本人3人で暮らしていたので朝と夜は日本食を自炊

昼は会社の前にタコスの屋台が来るのでほぼ毎日タコスを食ってました。
1個$1(US$)くらいだったと思います。
メキシコの通貨はペソですが、この町ではUS$も使えていたと記憶しています。

タコスの皮の部分は小麦粉系とトウモロコシ系(こっちはトルティーヤと呼んで
いた気が...)から選択できるのですが、自分は小麦粉系の方が好みでした。

具もいろんなレパートリーのなかから選べました。摂氏40度の炎天下で食べるタコスもなかなかいけたもんです。

メキシコは床屋が安いということである日床屋に行ったのですが、全く言葉が通じず身振り手振りでお願いして20分くらい無言で座って髪をきってもらったなんてこともありました。結果は意外とまとも(v^_^)

週末にアメリカへ戻らずメキシコのストリッ○ショーを見に行ったこともありました。
テキーラを飲みながらワクワクドキドキw
演技(?)が始まると同時に段々暗くなっていき最終的には真っ暗に...
なんも見えんじゃんかー(笑)

メキシコ時代の一番の思い出なのですがラスベガスまで遊びに行ける機会がありました。
すでに長期滞在していた同僚が前々からラスベガス旅行を計画をしていて運よくそれに便乗することに!

これがちょっとした珍道中
同僚が運転する車でラスベガス目指して深夜に出発
途中、砂漠のなかの一本道、車が故障したらそのままのたれ死ぬんじゃないかと思うくらいまわりにはサボテンと砂しかありません。

ネバダ州に入る直前にぬぁんとスピード違反で警察に停止を求められます。
どこで見張っていたのかわかりませんが突然パトカーが現れました。
もしかするとヘリコプターとかで巡視していたのでしょうか?

アメリカで運転するときは前後左右だけじゃなく上空も確認しないとダメ?
というのは冗談でみなさん法令速度は守りましょう!

これからギャンブル旅行なのに幸先悪いなぁなんて言いながら同僚は車を止めます。このとき同僚に「職務中の警察官の命令に背くと撃たれる可能性があるので勝手に車から降りたりポケットに手を入れたりしないように」と忠告されました。

この同僚、メキシコ在住が長くスペイン語は話せるのですが英語は俺の方が得意です。

警官 「車をもっと路肩に寄せろ!」
同僚 「???」
警官 「なんだ、日本人かよ、面倒くせぇの捕まえちまったなぁ」

このやりとりを聞いていた俺はあえて通訳はせず、全員英語がわからいフリを通すことにしました。

すると

警官 「免許証とパスポートをだせ、お前らも(俺ともう一人の日本人に向かって)」
俺 (ひぇー、たかがスピード違反でパスポート没収するのかよ、ラスベガス行けなくなるじゃん)

警官はパスポートをチェックしてすぐに返してくれました。
そして、メモ用紙に「時速40マイルで運転せよ」と書いて提示しそのまま去っていきました。

言葉が通じないやつを相手にするのが面倒くさかったみたいで、運良く無罪放免となったのです。

そしてひたすら運転すること8時間(だった思う)、無事ラスベガスに到着

ネオンの馬鹿さ加減に圧倒され、それまでの人生最大のハイテンションだったかもしれません。
メインはカジノでの遊んだりライブを見に行ったり、ほとんど寝ないで遊びまくりました。

ホテル代やらカジノの負けその他もろもろ2日で$1000くらい使いました。
ちなみに当時のレートは$1 = 約\150だったと記憶しています。

メキシコでは言葉が通じないので同僚にお世話になりっぱなしの2ヶ月でしたが、ロサンゼルスのディズニーランドやハリウッドにも観光に行くことができ貴重な体験をしました。

ではまた!

2011年6月 8日 (水)

新車購入記@マレーシア

今回はマレーシアを拠点に家を借りて生活です。(前回は半年間ホテル住まい)

車はなくても生活はできますが数年は居住する予定でしたし、この頃にはすっかり海外生活に慣れていて行動範囲を広げてエンジョイするためにはマイカーは必須です。

マレーシアもバイクの免許に排気量制限とかはないと思いますが、バイクに乗ろうという気は全くありませんでした。

理由は道路状況が悪いしドライバーの運転マナーも悪いので安全にバイクに乗れるような環境ではなかったからです。

調べたわけじゃないけど大型バイクのような贅沢品は車両価格も相当高いでしょう

そして一年中、真夏の日本と同じ気温なのでそんな暑いなかバイクは乗ろうとは思いませんでした。

当時のシンガポールとマレーシアのマイカー事情を少々

シンガポールは政府の政策(?)で輸入車には膨大な関税がかかり、車の所有に多額の権利金のようなものが必要です。
狭い国なので交通渋滞を緩和させる目的だそうです。

トヨタカローラは新車で日本円換算の600万以上じゃなかったかと記憶しています。
ホンダアコードは1千万近かったと思います。(いずれも権利金を含めた価格)

そんな国なのにベンツが沢山走ってましたのでシンガポールはお金持ちだらけですね(^^)

運良く(?)マレーシアに拠点をおくことになった俺はマレーシアのビザを取得し、車を購入することができたのでシンガポール組よりははるかに安く入手できます。

権利金がない分シンガポールよりは安く買えましたが、それでも日本車は日本の価格の倍以上します。

そこで目を付けたのがプロトンという会社の自動車です。

マレーシアでは三菱自動車が技術支援をして国産自動車を生産していたんです。それがプロトン社

早速中古車屋に行って価格交渉、日本円換算で120万円位だった(と思う)のでそれを購入しました。

足代わりなんでなんでも良かったのですが、半年くらい経ったある日、日本から新しい赴任者がやってきました。
なんと自分より年下の後輩じゃありませんか!

ちょうどプロトン社が新型を発売した直後で、俺は自分の車をその後輩に売りつけ自分は新型を入手するという計画を遂行!

最初に中古車を買った車屋さんに行き、ここで新車が買えるかどうか尋ねるとOKだとの事
価格は交渉した結果57000マレードル(当時の日本円換算で230万くらいです。高っ!)
でもまぁ、新車だし、中身はほとんど三菱ミラージュだったので購入を決めると大きな問題が!

大変な人気で納車は半年後になるとのこと(なんじゃそりゃー!)
もう後輩に売ること決めちゃったし半年も待てません!

迷ってる俺に車屋さんがアドバイスをくれました。
「60000ドル出せば、1週間で納車できるよ」
「くっそー足元見やがって」と思いましたが新車欲しいモードに入った俺は申し出を了承し60000ドルで購入することになります。
車は約束どおり1週間以内に納車されました。

車屋さん曰く「来週納車予定の他の客と交渉して、その車両をあなたに回すからそのため交渉料だ」みたいなことを言ってましたが、本当のところはわかりません。

このとき購入した車が
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A9
です。

ではまた次回まで!

2011年6月 7日 (火)

第二次マレーシア勤務

転勤で再びマレーシアに戻ってくることなりましたが第二次マレーシア勤務は激務でした。

前回はシンガポール支社が設立されたばかりで現地採用の従業員も1人しかいませんでしたが現地人の社員も増えていてシンガポール事務所は広いところへ引っ越していました。

マレーシアの工場もフル稼働しており朝8時半に出勤、帰るのは夜10時過ぎ(日付が変わることも多々)晩飯食ってビール飲んで寝るという毎日

土曜日は時々出勤、でも日曜は毎週休めていた気がします。

では簡単にマレーシアの紹介

通貨はMR(正確にはマレーシアリンギットと言いますが便宜上マレードルと呼んでました)
当時は1MR=\35~\40くらいだったかな
シンガポールドル(SD)は1SD=\70~\75だったと記憶しています。

首都はクアラルンプールですが自分が居た地域はジョホールバール(ジョホバルと発音)といってマレー半島の南端に位置するシンガポールとの国境の町です。

島国のシンガポールとは橋(コーズウェイと呼ばれる道路)でつながっておりそれぞれの国で入国審査と税関検査があります。

国境を超える方法は

1.自分の車を運転して超える
2.タクシーに乗って超える
この場合、よほど怪しくない限り乗車したままで入出国審査が受けられます。

3.シンガポール行きのバスを利用する
この場合は入国審査のときバスを降りなければなりません。

4.歩いて国境を超えることもできます。
この場合は1Kmくらいある海上の橋を(昼間なら)赤道直下の炎天下という過酷な環境のなか歩くことになります。
(ネットで調べたところ今は徒歩での国境越えはできないみたいですね)

シンガポール行きのバス乗り場に行くといわゆる白タクがたくさんいて、外国人っぽい乗客を見つけると「シンガポールへ行くなら好きなところまで行って50SDでどうだ」ってな感じで営業をかけてきます。

正規料金が決まっているわけじゃないので値切り交渉も可能です。
前回赴任時は車を持っていなかったしバスよりは快適なので白タクをよく利用しました。
もちろん正規のタクシーもありましたよ。正規のタクシーはバスと同じ経路(だっと思う)を往復するだけでシンガポール国内の好きな場所までは連れて行ってはもらえず、基本的に乗合だったと記憶しています。

ジョホバルに住んでいる外国人であればほとんどの人がシンガポールへ頻繁に行き来すると思います。
両方の国でビザを持っていればいいのですが、そうでないとマレーシア出国でスタンプ、シンガポール入国でスタンプといった具合にパスポートの査証欄があっという間に出入国のスタンプで埋め尽くされてしまいます。

余談ですが、パスポートの査証欄のページがなくなると大使館でページの増刷がしてもらえます。
ただしそれは1回だけでそれでもページがなくなると有効期間内であっても更新しなければなりません。
自分は査証欄のページがなくなったという理由でパスポートの更新をして新しいパスポートのページが再びなくなりページ増刷をしました。

物価は日本よりはるかに安いですが、いろんな意味で質は劣ります。

会社の社食(現地ではカフェテリアと呼んでいました)ではナシゴレン(チャーハン)やミーゴレン(焼きそば)なんかは1食2MR程度でした。
コッピー(コーヒーといってもインスタント)は1杯0.5MR

日本の物価と比較すると驚くほど安いのですが、食器なんかはとても洗っているとは思えない汚さです。
味はとにかくなんでも辛い!
自分は全然我慢できましたが、辛いのがダメな人にはキツイかもしれません。

あとは衛星環境が悪い事に目をつぶれば結構美味しい食べ物が激安で食べれます。
マンゴーとかドリアンとか日本では高級な部類のフルーツも激安です。
おっと自分はドリアンは苦手です(^^)

とはいっても一流ホテルの中であれば日本と変わらない衛生管理がきちんとされてます。値段もその分高いですけど...

ジョホバル市内にはタクシーがたくさん走っていて料金メーターは存在するのですがメーターが稼働しているのを見たことがなかったです。
なので、タクシーを捕まえて行先を告げ料金がいくらなのかあらかじめ確認するという利用方法がデフォルトでした。
タクシーの料金は街中10分程度の距離なら5MRくらい、郊外をとばして30分以上走ると20MRくらいだったかなぁ?

あと面白かったのがタクシーの窓ガラスに「初乗り\470」とか「自動ドア」とか日本語のステッカーが貼ってある車両がありました。
そう、日本で廃車になるような車両を輸入してそのまま利用してるんです!

言い方が悪くて申し訳ありませんがものすごいポンコツ車両でもちゃんと営利目的で利用できてる日本車の素晴らしさを実感しました。

郊外の高速道路みたいな道を走っているとおっきなトカゲ(体長30センチくらい)が車に引かれている姿をたくさんみました。

ドリアンを山ほど積んだトラックとかみると「あぁ南国へきたんだなぁ」なんて思いました。

次回は「マレーシアで新車購入記」(かも?)

2011年6月 6日 (月)

ヨーロッパ諸国漫遊モード

諸国漫遊と書いてびっくりぱちんこ水戸黄門の諸国漫遊モードを思い出したのでタイトルを「~編」ではなく「モード」にしてみました。(^^)

オランダ時代はここぞとばかりに色々な国へ遊びにいきましたねぇ

○ドイツ
車で1時間くらいのところにデュッセルドルフという大きな町があってよく遊びに行きました。
ここには日本人が多く在住していて日本食レストランや日本の食材を扱っているスーパーなんかもあり行くたびに毎回2万円分くらいの食材をまとめ買いしてましたね

本社から短期出張者がくるとお手軽観光コースはケルン大聖堂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

ドイツの高速道路(アウトバーン)は速度制限がなく(本当にないのかな?)
少なくても自分が使っていた区間はみんなすごい飛ばしていたので法令違反はしていないつもりでしたが...

自分のBMWが180Kmくらいで分解するんじゃね?ってくらいビビりまくりでハンドル握ってるのにポルシェがヒュンと一瞬で抜いていくなんてことが多々ありました。

○ベルギー
日本との往復は「成田ーベルギー」便をメインで利用していたので本社からの出張者を迎えに行くためによく行きました。

ブリュッセル(ベルギーの首都)の空港まで車で2時間くらいだったかな?

あとバイクツーリングはベルギーが多かったです。

ブリュッセルの街中はそうでもないですが高速のパーキング(ガソリンスタンド)みたいなところは以外と英語が通じない国です。

些細なことですがパーキングでコーヒーを頼むとき「アン カフェ」(コーヒー1杯)と言ったらちゃんと通じてとても嬉しかったw
ちなみに「カフェ オ レ」もちゃんと通じましたww

○フランス
長めの連休があったとき車でパリまで遊びに行きました。
片道600Kmくらいかな?自分のBMWじゃ疲れるしせっかくなので社用車のベンツを借りてロングドライブ!
世界的な観光地でもあるのでとても楽しい街です。

○イギリス
オランダのロッテルダムという港から船でイギリス(ロンドン)へ
事前に物価が高いと聞いていましたが、その通りでした。
一泊二日の日程で一通りの有名どころを駆け足で回って、船で帰国
めっちゃ疲れた記憶がありますが、こちらも楽しい街です。

○スペイン
仕事で1度だけバルセロナへ行きました。
自宅からアムステルダムの空港まで車で3時間半、それから飛行機でバルセロナへ
深夜に到着して翌朝から仕事で2泊3日だったと思います。
観光する余裕はなかったのでまた仕事で行けるチャンスを狙っていたのですがそれっきりに(残念)

○オランダ
オランダに住んでいながら、あんまり観光した記憶がない(汗)
でも風車があるところ(地名忘れた)まで行ったり、アンネの日記の家とかは行きました。
あとゴッホ美術館とか...

余談ですが、自分が在住していたときに隣町に帝京大学の分校(?)が設立されそこに日本人の女の子がたくさんやってきたのでお友達探し(世間ではナンパと呼ぶ)にも行きました(笑)

その時知り合った子とは自分がオランダを去った後、連絡先を教えたら何度か返事をもらったりもしたのですが、今は交流はないです。

オランダ語挫折編

ある程度英語が話せるようになってオランダへ赴任しましたので、会社の中ではそれほど言葉で困ることはありませんでした。

オランダの公用語はオランダ語ですが、自分が住んでいた地域の住民のほとんどはドイツ語と英語も話せたと思います。
なかにはフランス語も話せる達人もいました。

英語が半年でなんとかなったので3年もオランダにいるからにはオランダ語もマスターしようと試みますが、全然思うように上達しません orz

原因はズバリ勉強不足です。
英語は話せないと何にもできなかったので切羽詰っていたというか本当に必死こいて勉強しました。
英語がある程度できるようになってしまったことで何事も英語でやり過ごせてしまいます。

親しい友人ができて家に遊びに行ったり、一緒にツーリングに行ったりもしましたが、彼らはほぼマルチリンガルなのでわざわざ伝わらない言語を使うよりも英語を使うのは当然のことです。
その場に自分がいると気をつかってオランダ人同士でも英語で会話してくれたりもしました。

それから、学生時代に英語が苦手科目だったとはいえ多少の基礎があるのとないのでは全く違いました。

結局、オランダ語に関しては言いたいことは片言で言えるがヒアリングは全然ダメ
そうこうしているうちに転勤が決まり、オランダ語習得はあきらめることになります。

きっかけ

以前からブログはやってみたいとは思っていたのですが、いざ始めようとしても大してネタもないので躊躇していました。

そんななかある方に自分の海外在住経験談に興味があるといっていただけたのでこのブログ開設のきっかけとなった海外でのバイクに関する話を最初にアップすることにします。

今後このブログに書く海外の経験談はすべて自分が20年ほど前に体験した内容となりますので現状とは異なることがあるかもしれません。

とあるサイトに書き込んで興味を持っていただいた第1話です。

今から20年ほど前の話です。

当時勤務していた会社で海外勤務の辞令を受けて外国に赴任してたことがあるんです。
場所は東南アジア半年→アメリカ2か月→日本2か月→オランダ1年→東南アジア3年と転々とさせられました。

CBを乗り回していたのはオランダ時代です。

オランダ赴任時に3年間は居住する予定だったのでまず車(BMWの3シリーズ)を買いました。
(ヨーロッパでBMの3は日本でいうとカローラクラスの大衆車です)

そして現地の生活に慣れるとすぐにCB購入計画を実行!

もううれしくてうれしくて天気が良ければCBで通勤
休みの日は隣の国までツーリングなんていう優雅なバイクライフを満喫してました。

ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグあたりは国境といっても入国審査があるわけでもなく時速100Kmでぶーんと通過できるんですよ!

フランスは一応、入国管理みたいなのがありましたが100%パスポートチェックをしているわけではなかったと思います。
(昔の話なんで今はどうなってるのかわかりません)
それからフランスはすごく遠かったのでバイクで行ったことはなかったです。


余談ですが、ツーリングから数日後、自宅にベルギーの警察からスピード違反の罰金払込み用紙が届いたなんてこともありました(恥)
全部フランス語で書かれていて解読不能(なんとなく察しはつきましたが)
会社に持っていきフランス語が読める人に訳してもらって罰金払込み用紙であることが確定 orz


当時の仕事は大変でしたが、オランダは先進国なので生活に不便はなく
日本では乗ることのできない大型バイクやドイツ車に乗れて望郷の念などこれっぽちも感じない快適な日々を送ってました。

しかーし、1年位経ったある日、会社の事情で東南アジアへ転勤を命ぜられてCB900満喫ライフは終わりを遂げることに...

「3年間転勤はないという前提で車も買ったのに」とだだをこねたところ車は会社が妥当な価格で買い取ってくれましたが、
バイクは自己責任で処分せざるを得ず、現地のバイク仲間に安く譲ってきました。

その後3年ほど東南アジアに居住し合計4年半くらいの外国生活を終えて帰国

といった感じです。

エリートサラリーマン風を装って書きましたが、今はパチとボウリングが趣味のフツーのおっさんです(^^)

はじめまして

みなさんはじめまして(^^)

ボウリングを通じてネットで知り合った方とお話ししているうちにひょんなことからバイクの話になり、そこから限定解除の話になり、そこから海外で生活していた話になり.....

と話が膨らんでしまい、知り合うきっかけとなったトピックの話題から大脱線(笑)

今後、脱線しそうな内容はこっちに書くことにしようと思いこのたびブログを開設しました。

とりあえずは海外赴任時のエピソードなんかを書きたいと思います。

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